「私の履歴書」篠原欣子

NHKテレビ東京だったか忘れたが、経済番組の生放送でのやり取りが強烈に印象に残っている。

いわゆる「正社員」以外の処遇について、アルバイトは年金や健康保険がないから、というテーマで
派遣社員も年金はないから・・・」と発言し、お付きの人が慌てて訂正するという一幕があった。
派遣社員は派遣先からみればテンポラリーのスタッフだが、派遣元の「正社員」であり一定時間以上働いていれば派遣元会社の年金も健康保険もある。
一般の人が知らないならともかく、人材派遣会社の経営者でこれはびっくり。

今月の「私の履歴書」は篠原欣子。期待通り、常人からかけ離れたエピソード満載だ。

困難にぶち当たると、ひたすら愚直に行動する。ただ、突破したあとは何と戦っていたのかも忘れてしまうような人なのだろう。そのくらいのほうが障壁への破壊力が増す
私は篠原氏とは正反対で、書類仕事や規則の確認が得意で、まず出来ない理由を列挙してしまうような人間だ。
人間には個人差があり、起業にも向いている人、向いていない人がいる。それぞれの得意分野で生きればいい。

6月8日朝刊
 こうして会社の上司や同僚から「幸せになれよ」「おめでとう」と祝福されながら、東洋電業を退社した。2度目の寿退社だった。
(中略)
 ふと考えた。私は婚姻届に判子を押していない。いや見てもいない。式を挙げて一緒に暮らすようになれば、それで夫婦になるのだと思っていた。無知といえば無知。でも家族や親戚を大勢招いて式を挙げていながら籍を入れない方がおかしくはないのか。
(中略)
 挙式の前に彼から聞いた話、彼が兄に言っていたこと、それから最近の彼の言動をつなぎ合わせると、あることが浮かんできた。
 彼には奥さんがいる。心は離れているし彼は離婚したがっているのに、奥さんが離婚に応じない。いずれ離婚が成立したら私を籍に入れるつもりで同居を始めた。
(中略)
 彼が留守のすきに大井町まで出かけ、不動産業者に紹介された3畳1間のアパートを借りた。次に彼が遠出するとわかっていた日を指定して運送業者の車を手配した。
 その日、家の裏口に止まったライトバンに少しばかりの荷物を積んで、手紙も置かずに家を出た。



6月11日朝刊
 そんな私の中に衝動が生まれてきた。留学したい。外国で暮らしたい。
(中略)
 そのころ海外渡航は自由化されていたものの1ドル=360円の固定相場で、外国に行くことなど、将来を嘱望されたエリートの卵か金持ちでもなければ考えもしないことだった。しかし私は無謀とも高望みとも思わず、ただ留学したかった。
(中略)
 往復の航空運賃は46万円で大卒の初任給が3万円といわれていたから、その1年3カ月分。外貨の持ち出し上限が700ドル、つまり25万円だった。自分の蓄えに、母が私のためにためてくれていたお金を足しても余裕はない。
(中略)
 1969年5月、私は羽田の東京国際空港から日航機に乗った。
(中略)
 だが英語を学ぼうとして入った語学学校はドイツ語専門だった。日本をたつとき「行けば何とかなる」と思っていたが、何ともならない。